August 23, 2005

同窓会はまあ楽しかった

同窓会に行ったら友達がカナダに留学していた。
ものすごく羨ましく思えた。

確かに日本は住みやすい。
それは間違いのないことだ。
世界有数の先進国でありながら、人口の90%以上は日本人だ。
95%以上が日本語ネイティブであり。
98%が文化基盤や思想や習慣を共有する。
多くはまじめで親切で心が広い。
「幻想」の上であれ、これらのことは嘘偽りのない事実だ。

しかしこれらは多くの「幻想」の上に立った虚構に過ぎないとも感じている。
自由にしろ人生にしろ趣味にしろライフスタイルにしろ、
それらは誰かが用意した着せ替え品の中の一つを選んでいるに過ぎないのではないだろうか。
流行というのは常にその2年前3年前にどこかのお偉いさんが決めるのだ。
今まではこうだったから次はこんなものを流行らせましょう、という具合に。
これらはあたかも自由意志に基づいて選択されているように見えて
実際のところは陳列された商品の一つを詐欺や恐喝まがいの手法で購入させられているのだ。

以前、2チャンネルで似た主旨の文章を読んだことがあるので必死に探してみた。
それが以下。
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日本人のつくる社会(世間)は、「ひと」であるための「みなし規定」を、非常に厳しくまた細かく設定しているんじゃないか、と思うことはよくあるよ。とりあえず五体満足で、概ね健康で、アタマがハッキリしていて、等々のフィジカル、メンタル面の初期条件をクリアした上で、なおかつ様々な行動様式も世間的な基準で「まっとう」でなければならない。年頃になりゃちゃんと結婚し、子供もつくり、義理を欠かさず、何事も丸くおさまるように立ち回り、そういうことをコマメにこなさないと、なかなか「一人前」と言ってくれなかったりする。世間並に「普通」であるためのハードルが、何気に高いんだな。

「みなし規定」の項目によっては、それを欠けば下手をするとカタワ扱いだ(俺の友人は「結婚する気はない」と言ったら、親から面と向かってそう言われたそうだ)。そこまで言われなくとも、世間的にはせいぜいのところ「変り者」とか「気の毒な人」呼ばわりで片付けられてしまうのが関の山だったりする。今はそれに「人並みの生活水準」をクリアすることが望ましいという(これまたかなり高い)ハードルも追加されてるから、うっかり貧乏も出来ない。「生活(経済)苦」とは、実はこのことかもしれない。

要は「心身ともに健康に社会生活を営むことが出来る者」とみなされなければ、世間はその成員としての居場所を、なかなか空けてくれない。その間口が、なんだかずいぶん狭いんじゃないかという気がする。もちろん昔に比べれば広くなった間口もあるだろうけど、逆に狭くなったものもあったり、規定項目自体が妙に細かくなったり、増えたりもしているんじゃないかと、俺はひそかに疑っている。

世間的に「まともな人」とみなされている人達は、それを維持するためにそんな諸々の条件を満たし続けるという、いわば「我慢大会」に参加しているわけで、そこから何かの拍子で外れてしまう人に対して、どう対処していいからなかったり、理解する気(余裕)がなかったり、あるいは徹底的に冷たくなったりもするんじゃないか。
もっと言えば、理由はどうあれ「我慢大会」から外れる者に対して、ある種の「やっかみ」や、その裏返しで「ザマァみろ」といったような感情が、どこかで働いているんじゃないかとも思う。そうとでも考えなければ、(分っているだけで)三万人以上の自殺者が何年も続くという事態について、メディア(世間?)が実になんとも冷淡に見えることの説明がつかない。

電車を止めるようなハタ迷惑な死に方をする人は、そういう「まともな連中」に対する、ささやかな抗議を表明しているのかもしれない。最期っ屁よろしく、抜ける時くらいは騒がせてもらう、あとは知ったことか、ってなもんで。
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要するに「これを買いなさい」「これをしなさい」「こう言いなさい」「こう考えなさい」、
と言われた事に対して反対したり拒否したりできないような
見えないプレッシャーが日本という国にはあるのだろう。
そして、これだけの先進国でありながら日本には英語は疎か、中国語や韓国語表記の看板ですらあまり見あたらないのは何故だろう。
これはつまり、「日本に来るのは認めるが、それならあなたたちは日本人と同じように考え話し服を着て振る舞いなさい」
というメタメッセージなんじゃないかとも思う。

見えない束縛に気付いてしまった人はどうすればいいんだろうか。
一端そんな物の見方をしてしまうと、果たして日本は本当に住みよい国なのだろうかという疑念が頭から離れない。
実は「日本は住みやすい」という言説も誰かが仕掛けた巧妙なトリックなのではかとさえ思えてくる。
だからこそ本当に海外は住みづらいのかも確かめてみたい。
書店で売られている本でもなく、どこかのスポンサー付きのニュースでもなく
新聞でもラジオでも知らない誰かが適当に書いたウェブ上のテキストでもなく
自分自身の目で確かめてみたい。

総てを疑いきったあとに残るものは蓋しシンプルなものである。
Cogito ergo sum
世の中は複雑でいたずらでややこしく、常に解決困難な問題を投げかける。
そんな言葉も自分の目と耳だけを頼りにしていれば世の中は複雑たり得ない。
少なくとも俺はそう信じている。
だから、この確信と同じくらいに自分の目で確かめたいという欲求は「自然」なものだと思う。
自然故にその欲求を解消しないでおくことが「不自然」にすら思える。
だからこそ羨ましかった。
連絡先を聞いておけば良かった。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)