February 11, 2005

アイデンティティと名前

映画『風の谷のナウシカ』ではナウシカによって名前を与えられた
巨神兵はそれをキーに知能的な進化を遂げた。
尤もらしくアイデンティティと名前の関連を主張しているように見えるが。

アイデンティティとは英語のIdentityであり,訳語は同一性とか自己意識とか云うもので
どうにも捉え所がないように感じられる。
馴染みのある語ではID[アイディー]と同語源であり,現実に沿って説明すれば
1:ある人物が法的に存在が確認されている=国籍を確認されている
2:対象としている人間とその確認されている人物が同一人物である
の2つの条件を満たしたときに証明されるその法的根拠・効力それ自身がIDであると言えると思う。
そしてその根拠を物質的に実現させたものがIDカードと云うものである。
つまりIDとかアイデンティティと云うのは,
何らかの本質(大抵は捉えにくい)とその本質の表象的な一面(大抵は捉えやすい)を結びつける糸のような物である。

ここで名前のアイデンティティとしての根拠を考えたい。
まず人間が意識せずに認識している多くのことは
本態に対して自分の目と云う光を当てたときに生ずる影にすぎない。
厳密な記号論に立ち入らずに進めるが,このときに便宜的に選択される多くの認識は記号であると言えるだろう。
例えば目の前に見えるリンゴが本当にリンゴなのか,本当に存在しているのかすらも確かではないので
「リンゴを見た」と云う判断それ自身が既に記号なのだ。
#つまり何らかの外的作用によって感覚を刺激され「リンゴを見た」と認識したのだが,それがどんな外的作用によるものであるかは未知である。
この線で考えると感覚をコードに従って交換する言語と云うのもやはり記号である。
では言語と云う範疇の中に含まれる名前というその概念は一体何なのか。
ここでもう一度IDに話を戻したい。
名前には
1:ある存在Aが存在している
2:ある存在Aを認識している別の存在Bがいる
3:BがAに対する呼称として何らかの名前を選択する
4:Aが,BやBがAに働きかける外的作用 (具体的には音と用いた声や形を用いた文字など)を認識する
5:その外的作用がAを指していることをA自身が認識する
と云う過程を経る手続きによって生ずる効力を持ち,それが名前のアイデンティティであると云うのは確かだ。

さて,この手続きの中で何が本質であって何が表象であろうか。
1は前提条件なので明らかに本質である。
2はどうだろうか。
例えばAと云う人間とBと云う人間が現実にお互いを認識しうる距離に立っていたとする。
しかしAはちょうど背を向けており,Bと云う存在を認識することができない。
としたらAにとってBが下した判断(Aが見える)は本質たり得ようか。
いや,もしかしたらBも別の方向を向いていてAの存在に気が付いていないかもしれない。
しかしどちらであってもAにとっては違いがないはずだ。
この点で少なくともAにとって,Bが「Aの存在を認識した」と云う判断は本質ではないと言える。
#Aにとっての本質と云うものはAに限定された世界における本質であって,真の意味での本質とは別である
3は明らかに本質ではないだろう。
理由は複数の視点から挙げることができるが端的には既述の言語という性質にある。
4は5に含まれる。
5は1と対になって前提条件である。
まとめると1と5を以て名前が持つアイデンティティの効力は発揮されると言えよう。

ここで注目したいのは人間が持って生まれる名前とはどんな意味をもっているのだろうか,と云うことだ。
正確には生まれてから一週間以内に所定の手続きを経てID化された記号のことであるとか云うことは抜きに。
自分自身が認識できるのであれば,例えば二人しかいない部屋の中で「ねえ」とか「あのさ」と声を発せられたら
それは大抵の場合は自分に向けてのことであろうし,それを以て「自分が呼ばれている」と云う判断がなされるのが普通であると思う。
実はこのときに前述のようにアイデンティティの手続きは済まされていて,
それが人称代名詞であろうが感動詞であろうがそれは問題ではないのではないか。
それに,渾名とかニックネームとか云うものも多く使われるが,ここにアイデンティティは無いのかと言うとあると云うのが正しいだろう。
縦え「おいバカヤロウ」であっても,そこに正しい手続きが経られたのであれば同様である。
畢竟するに名前と云うアイデンティティ(の一形態)には,多少主観的になるがこの程度の意味合いしかないのである。
もっと主観的に,否,主体的にアイデンティティとは何かと問えばそれは決して記号には成り得ないのではないか。
苦労して絞り出しても「俺自身だ」くらいにしか言えないだろう。
なぜならこれこそがアイデンティティの訳語にある「自己意識」のことであって,その概念との正しいリンクであるのだから。
もう少し言えば,その捉え所のない観念を言語と云う記号を借りて表現せざるをえないときに一人称代名詞になったり名前になったりするのだ。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)