October 23, 2004

冷戦-危機の克服とその後-

実際の所、キューバ危機それ自体が両陣営にとってあまりにインパクトの強い事件でした。
例えば、あの危機によってキューバに持ち込まれたミサイルは
長崎に落とされた原爆の60倍の破壊力を持っていたとされています。
そしてもし核戦争が回避できないとしたら両国に1億人の死者が出るとも予想されていました。
この未曾有の危機を乗り越えた世界はどのようにして新しい一歩を踏み出したのでしょうか。

このころ、核兵器開発競争の加熱によって米ソ両国は疲弊していました。
アメリカ国内では経済不振、モラルの低下、犯罪の増加、軍事拡張の限界、ベトナム戦争を契機とした反戦運動、
黒人の公民運動による国内混乱、暗殺の横行による社会不安などに陥り
国自体を病的な状態として比喩的に『アメリカ病』と呼ばれました。
そしてソ連では計画経済の失敗、軍事費負担による経済破綻、共産圏内での足並み不一致が続きました。
アルバニアはワルシャワ条約機構を脱退し、中国はアメリカ接近、北朝鮮は主体思想に基づきソ連から離反しました。
#主体思想……自分の運命は自分で切り開くという考え方だが実質的には自国総書記への絶対忠誠
こうして社会主義陣営内にも軋轢が生じました。

このような状況の中でのあの危機によって双方に新しい動きが見え始めました。
先ずアメリカは中国との状態回復によって東アジアの安定化を目指します。
中国こそが東アジアにおける中心であったからです。
西ドイツでは東方政策が進められ、東ドイツとの関係回復に向かいます。
63年の部分的核実験停止条約に続いて68年には『核兵器拡散防止条約』が、
72年には『戦略兵器制限条約』(SALT1)が締結されます。
#核兵器拡散防止条約……国連で採択されたものでインド、パキスタン、イスラエル、キューバ以外の国は批准
#SALT1……米ソ間での戦略ミサイルの数量制限のための条約
#戦略核兵器……戦略的目標に対して使用される核兵器のことで一般的に戦術核兵器より威力が大きい
#戦略的兵器……戦争全体の流れを決定し得るほどに強力な兵器

世界平和に向かうかに見えましたが、ここでまたソ連は違う行動にでます。
アフリカでの内戦(アンゴラやソマリア)に対して東側勢力への武器支援やキューバへの干渉、海軍の増強とによってアメリカの不信を買います。
米ソ間のヒビに対しての最後の鉄槌がソ連によるアフガニスタン侵攻です。
『ソビエト・アフガン戦争』。

共産主義政党アフガニスタン人民民主党によって78年にクーデターが起き、アフガニスタン共和国大統領を殺害、
投獄されていた自民民主党総書記タラキーは解放され、大統領に選出されアフガニスタン民主共和国を樹立します。
しかし国内の保守派・イスラム派・反共産主義派勢が次々と蜂起し、自民民主党は国内での支配力をほとんど奪われます。
これに対してソ連は翌79年、国際法上のタブーである内政干渉に出ます。
自民民主党擁護のために戦闘部隊を空輸しアフガニスタンに投入しました。
呼応するようにアメリカでは対ソ強硬路線をとるレーガン政権が成立、『第二次冷戦』(新冷戦)へと突入していきます。

また、この経緯としては中央アジア、カフカスでの社会主義勢力の崩壊を防ぎたいソ連にとっての
防波堤としての役割をアフガニスタンに見出していたためと考えられます。
ちょうど侵攻の直前期にイランでは『イスラム革命』(イラン革命)が起こり東西両陣営に中立な新政府が樹立しました。
#イスラム革命……シーア派勢力によって親米政権パフラヴィー朝が打倒された革命
革命後は本来アラブでの主流であるスンナ派の周辺諸国との関係やアメリカとの関係が悪化、
アラブにおいてイランは孤立状態に陥ります。
このとき、イスラム革命は新たな第3勢力とも呼べる『イスラム原理主義』を産み落としたのです。
イスラム原理主義は経済的概念を超えて、宗教的に定義されるもので
この点で既存のイデオロギーとは性質を異にします。
そして中央アジア、カフカスに歴史的・文化的繋がりの強いイランの革命の余波が
アフガニスタンに飛び火することを東側は(当然西側も)恐れたのです。
ご存知のようにアフガニスタンには今でも何百万個もの対人地雷が埋められており
一日当たり数人がこの被害を受けているとされています。
この地雷はソ連によって撒かれたのです。
戦禍によってアフガニスタン国内では総人口の10%にあたる150万人が死亡、
およそ600万人の難民が周辺諸国に流入、国内資産の50%が破壊され
農業生産は50%までに減少し、家畜は50%失われました。
結局、この火元は米ソ対立なのですからこれも深刻な爪痕の一つです。

侵攻の翌年80年にあったモスクワオリンピックでは西側諸国がボイコットし、
報復として東側諸国は84年のロサンゼルスオリンピックをボイコットします。

そしてシーア派を嫌ったイラクによって81年に『イラン・イラク戦争』が勃発、
親米であるイラクに対してアメリカが軍事支援を送ったために戦争は長期化しました。
しかし、ここでは東側もイラクを支持、イスラム原理主義の壊滅のために手を携えます。
両陣営からの支援によってイラクは中東最大の軍事国になるのですが、
それまでは親米政権の下、近代化を進めていたイランが中東最強の国家だったのです。
戦争は8年に及び、結局は決着の付かないままに終わりました。
しかし、このとき生まれたイスラム原理主義が21世紀にこれだけ台頭するとは誰が予想したでしょう。

アフガニスタン侵攻の方と言えばイライラ戦争終了の一年前88年にソ連が撤退し、
世界における両陣営へのソ連の影響力は急速に衰えていきました。
その大きな端緒となったのが85年にソ連共産党総書記に就任したゴルバチョフです。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)