October 23, 2004

冷戦の爪痕-3-

世界終末時計、核時計とも呼ばれる比喩的な意味合いでの世界の終わりまでをカウントダウンする時計が
科学者たちにより発表されています。
そのカウントダウンが最も0秒に近づいたのが『キューバ危機』の13日間です。
1962年10月16日から28日まで。

キューバが欧州の地図に載るのはコロンブスに発見された時からです。
比較的、欧州(特にスペイン)に近い地域であったために
カリブ海諸国はスペインによる砂糖のプランテーションが発達しました。
19世紀にキューバ内に独立運動が起こりますが、同時に『アメリカ・スペイン戦争』が始まり
スペインの敗北によって次はアメリカの支配下に入ることになりました。
その20年後にキューバは独立しますが実質的にはアメリカ保護下に置かれたままです。
それというのはキューバの法律にアメリカによる内政干渉権やアメリカ軍事基地提供義務などです。
これは1933年に起きたバティスタ軍曹による『軍曹の反乱』によって臨時政府が崩壊し、
軍参謀総長となったバティスタによる実質的な支配と
その後の1952年に起きたバティスタの軍事クーデターによってその頂点を見ます。
バティスタ政権・アメリカ政府・アメリカ企業・マフィアによって富は独占されました。
そこに立ち上がったのがあのカストロです。
元々は弁護士であったカストロですが、最初の蜂起に失敗しメキシコに亡命すると
そこでゲリラ戦の訓練を受けます。
そしてヨットに乗ってキューバに戻ると山野を拠点に反政府ゲリラを展開、
2年後にはついにバティスタを国外逃亡に追い込みこれによって革命政府を成立させます。
『キューバ革命』。
バティスタという対米従属の柱を失ったアメリカは新政府の樹立に動きますが
革命政府による徹底した農地改革によってアメリカ-キューバ間の関係は過去最悪となります。
そして、かねてからの米ソ対立によりキューバはソ連に接近、1960年にはソ連と外交を結びます。
アメリカをキューバから完全に追い出すために外交を遮断、アメリカ企業を排除し
彼らが残していったインフラ設備を強引に国有化します。
この中には石油製油所などかなり大掛かりなものも多く含まれます。
そこにきて62年2月3日、アメリカはキューバの経済封鎖を決定します。

ここで米ソの核開発競争に話を変えます。
双方が核兵器という致命的な武器を持つことで戦争を避けるという『核抑止力』を標榜に
米ソは激しい核開発競争を展開します。
49年にソ連が原爆を完成させると52年にはアメリカが水爆を完成、追ってソ連が翌年に水爆を完成させます。
その後の競争はこの核兵器を運搬するミサイル技術にシフトしていきます。
大陸間弾道ミサイル(ICBM)や原潜発射型ミサイル(SLBM)を開発、更に戦略爆撃機とによって
アメリカは軍事力でソ連に大きく溝を開けます。

閑話休題、海を越えて直接アメリカを核攻撃することが不可能なソ連はキューバに中距離ミサイル基地建設を目論見ます。
同年10月22日にケネディは「ソ連によるユー場ミサイル基地建設」と公開、ソ連に撤去を要求し
核兵器搬入防止のために海上封鎖し、カリブ海全域に渡って船舶の調査を断行します。
しかし、ソ連フルシチョフはこれを拒否し、キューバにミサイルを積んだ船が向かいます。
ここでアメリカはキューバから攻撃を受けた場合にはソ連によるものと見なすと発言、
国連総長や中立諸国が積極的に動き米ソ間に水面下の交渉が活発になります。

先に折れたフルシチョフは強硬派を抑えてミサイルを満載した船舶を引き返させます。
同年同月27日、キューバ低空をアメリカの偵察機U-2が飛行していたのを
フルシチョフもカストロも攻撃しないように命令しましたが
現場の指揮官の独断により地対空ミサイルを発射、U-2は撃墜させパイロットは死亡しました。
核兵器という武器を失っているソ連にとっては泣き面に蜂といったところです。
駒を無くしたフルシチョフは28日、譲歩に出ました。
アメリカが再びキューバに侵攻しないことを条件にキューバにあるミサイル基地を解体するというものです。
アメリカはU-2によってそれを確認すると海上封鎖を解きます。
これによってキューバ危機は終息を見ました。

この教訓から米ソ間には直通電話ホットラインが敷設され、部分的核実験禁止条約が締結されました。
#部分的核実験禁止条約……米・英・ソ間の大気圏内、宇宙空間、水中における核兵器実験を禁止する条約
核戦争の真の恐怖を理解した米ソはこれより『デタント』(緊張緩和)へと向かいます。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)