沢山の爪痕を今でもあちこちに遺しているベトナム戦争。
ベトナムは今でも数少ない社会主義国ですね。
冷戦時代までのベトナムの歴史を概観してみましょう。
ベトナムは1000年に渡って中国から支配を受けていましたが
十世紀中頃に南漢軍を破り独立します。
しかし、陸続きであるために簡単に再侵略されてしまうため、
まずは国内を安定させ内部充実の必要があります。
そこで視点を変え中国に習い沢山の制度や思想を受け入れていきました。
有名な『科挙』や儒教などを導入し実際に中央集権国家としての体裁を整えるまでに
500年の時間を要しました。
それまでの間は比較的緩い集権国家として国王も市民に混ざり、長子継承という制度もありませんでした。
王朝が秦から宋に移っても常に中国の目は緩まず内部に不平分子が起こると見ると
すぐさまに侵略の手を挙げます。
更に元の時代には蒙古に悩まされ、常に外部侵略から目を離せないのは
中華圏諸国の大きな特徴でもあります。
時が経ち19世紀になると東アジア諸国も次々と欧州に侵略されて行き、それはベトナムとて例外ではありませんでした。
大きな端緒となったのがアヘン戦争です。
19世紀末期にフランスに支配され第二次世界大戦が始まって早々にフランスが降伏すると
続いて日本による支配下におかれ、太平洋戦争の始まりと共にベトナムにも独立の気運が高まります。
『ベトミン』(ベトナム独立同盟)です。
日本がポツダム宣言を受諾し降伏するとベトミンはすぐさま首都ハノイを占領し
コミンテルンの構成員ホー・チ・ミンによって抵抗政府が打ち立てられ
8月には臨時政府樹立、続いてベトナム民主共和国独立宣言がなされました。
『ベトナム8月革命』。
更に旧インドシナ植民地のラオスやカンボジアもこれに続こうという気運を見せます。
しかし、まだ第二次世界大戦が終了したばかりで世界のあらゆる国がこれを受け入れる余裕を持っていませんでした。
特に旧宗主国であるフランスはインドシナ植民地を放棄する気はなく
ベトナムとフランスの間に緊張が張り詰めます。
30年続く動乱の発端とも言えるインドシナ戦争です。
独立宣言がなされた時点で既にベトナムは社会主義国でしたが
戦時中に中華人民共和国が成立すると近隣大国として中国の大きなバックアップを受け
当初の予想に反して苦戦していたフランスは西側の覇者アメリカに支援を求めます。
この当たりから西側東側の冷戦の捌け口としての構造(代理戦争)が浮き上がってきます。
ところがアメリカの支援を受けてもフランスは優位に立つことができないで居る間に
ベトナム臨時政府は農民に土地を分配し始めました。
共産党にしろベトミンにしろその主な構成要素は農民であり、彼らに土地を与えることは
支配からの独立という大きなモチベーションを与えることになりました。
結果的にはフランス軍は撤退しましたが、その翌年に行われた大統領選挙で
アメリカの傀儡(かいらい)国家ベトナム共和国(通称南ベトナム)が樹立され
南北ベトナムが社会主義と資本主義に分かれます。
しかし傀儡国家に国民の信頼を得ることはできず、
北のベトナム民主共和国の指導・支援により南ベトナム解放民族戦線=ベトコンが結成されます。
ここからがいわゆる『ベトナム戦争』です。
#アメリカにはもしベトナムが社会主義に倒れると東南アジア全体が社会主義が広がってしまう
#という見方(ドミノ理論)があり、なんとしてでも防ぎたいという思惑があったのです。
南ベトナムはベトナム民主共和国にまったく歯が立たず
時のアメリカ大統領ケネディによってアメリカ軍による直接的な軍事介入が決定されました。
本格的な侵略に難色を示していたケネディが暗殺されると次の大統領ジョンソンは
前年に起きたトンキン湾事件を理由にベトナム民主共和国への空爆を開始しました。
#トンキン湾事件……北ベトナム沖のトンキン湾で国籍不明の船から魚雷による攻撃を受けた事件
中国やソ連から支援が隣国のラオス・カンボジアを通してベトコンに流れているために
なかなか攻めあぐねていたアメリカは両国にも攻撃を加え
これはそれぞれの共産主義勢力に火をつけました。
こうして『第二次インドシナ戦争』へと戦火は拡大していくのでした。
有名な話ですがアメリカの地上軍はベトコンのゲリラ活動に大変な被害を被っており
外部にとどまらず国内からも強い反戦運動が展開されていたのです。
そこで次のニクソン大統領は陸からの攻撃をやめ、空爆を主力に転換しましたが
これには国際世論の強い反発を受け即刻失敗に終わりました。
地上からの攻撃も空からの攻撃もできなくなったアメリカはベトナムから手を引き
あっという間に北によってベトナムは統一されベトナム社会主義共和国が成ったのです。
■そして爪痕
ゲリラ対策に大量に撒いた枯葉剤による後遺症。ベトちゃんドクちゃんなど。
ベトナム帰還兵に対するアメリカ国内の酷い仕打ち、就職難。
ゲリラのために精神を病んだ多くのアメリカ兵士。PTSDなど。
莫大な戦費と大量の死者、ベトナム難民、国土の荒廃。
アメリカが得たものは無敗神話の崩壊。
こうした流れの中でアメリカはより優位になるために隣国カンボジアにアメリカの傀儡政権を打ち立てました。
カンボジア軍総司令官ロン・ノル将軍を持ち上げてクーデターを起こさせ"クメール共和国"という国を作ったのです。
危険を感じたカンボジア国王シアヌークは北京に亡命します。
社会主義の日の下、ここに立ち上がったのが共和党のポルポト率いる"クメール・ルージュ"です。
そしてこれを中国が後押しし、シアヌーク王は北京より舞い戻りクメールルージュに加勢します。
ポルポト派+中国+シアヌーク王 vs アメリカ+クメール共和国+ロンノル将軍
中国はこのポルポト派の現状を認識していなかったのです。
西側の雄アメリカが我らが社会主義の仲間カンボジアを食い物にしているとだけ考えたのです。
しかし、ベトナム戦争終了と共にアメリカはカンボジアからも手を引くやいなや
ロンノル将軍率いるクメール共和国が倒れポルポト派が台頭、
ポルポト派の恐怖政治によってカンボジアは壊滅的危機に瀕します。
形式上はシアヌーク王がトップではありましたが、権力の全てをポルポトに奪われた形でした。
そしてポルポトは原始共産主義を掲げ、知識階級である医者や教師などは一人残らず殺されました。
#原始共産主義……最も初期の社会構造と考えられているもので、老若男女一人ひとりが分担することなく
#自分の食べ物は自分で賄うというシステム
中卒以上の身分の人がいる家は皆殺しにされたとか眼鏡をかけていたら殺されるとか
美人や背の高い人は殺されるとか、
とにかく『アメリカ的なもの』や『エリート的なもの』は破壊するという動機を持っていたのです。
そして生き残った都会の人は皆、農村に強制移住されそこで働かされました。
ポルポト派はこれで皆が幸せになれると考えたのですが、実際は社会主義の類に漏れず。
まず、移住者は元々都会人ですから鍬を持ったこともないような人たちです。
いきなり働けと言われても右も左も分からずという状態だったのです。
更に、昔からの農民も農民で他所から来たモヤシみたいな都会人に手取り足取り教えるということもしませんでした。
ポルポト派自身が社会主義、一般的には知識階級・エリートであったこともあり
農業に関してはずぶの素人である彼らは無駄なダムを作ったり、間違った時期に田植えをしたりしたのです。
こうして生き残った人たちの多くも食べ物不足に悩まされ、餓死する人も多かったのです。
しかし、国際的な力を持った人が一人も生き残っていなかったため、この現状が世界に伝えられることはありませんでした。
#そして今のカンボジアで子供たちを教えている先生は世界地図で自分の国がどこにあるのかすら知りません。
#更に、今でも国土のどこを掘っても白骨が出ないことはないというほどであるそうです。
難民を通して現状を知ったベトナムはこれを危険視してカンボジアに侵略し、ポルポト派はあっさり崩壊しました。
『カンボジア戦争』。
ベトナム軍の驚いたことに首都プノンペンは人っ子一人おらず、累々たる死体の山、山、山。
こうしてベトナム軍によってやっとカンボジアの状況が世界に伝えられたのです。
これには世界中が驚愕しました。
何か異変が起きているらしいということは知られていましたが、
まさか数百万もの人民が虐殺されているとは予想だにしませんでした。
しかしその頃、同じ社会主義でありながら中ソは対立しており
ベトナム-ソ連 vs カンボジア-中国という構造であったため
カンボジアを侵略したベトナムに対し、中国は懲罰戦争の名目でベトナムに侵攻します。
これには双方ともが莫大な被害を被り中国が一方的に撤退することでこの『中越戦争』は終息しました。
そして86年にベトナムは『ドイモイ(刷新)政策』を打ち出し、
経済活性のためにも西側・東側両陣営との和解は不可欠となりカンボジアからベトナム軍を総撤退させました。
こうして89年にインドシナは平定されたのです。
しかし西側からの経済封鎖が解かれたのは94年になってからのことです。
つまり実質的にベトナムが戦争を終結させてからはまだたったの12年しか経っていないのです。
90年以降、ベトナムは積極的に外国企業を誘致し自由経済を導入させていきました。
現在でもベトナムにとっても日本にとってもお互いが切っても切れない重要な関係です。