『公共の福祉』という何とも曖昧な用語の簡明にして的確な解釈は
"国民全体の最大公約数的幸福の追求"と言えます。
これを始めて聞いたときはとても感動したことを覚えています。
さて、これはつまり全体主義の名のもとの抑圧的なスタンダーダイズ政策なのでしょうか?
個人的には全くの逆だと思います。
要するに最大限、個人の幸福欲求やそのための活動・行動を尊重するということが
結果的には全体としてみたときに最大公約数的であったのではないかと思うのです。
ゲーム理論的には常にあらゆるものは"自然状態においては"それぞれの最適条件に収束します。
アダムスミスの有名な『神の見えざる手』というフレーズにあるように
市場価格や都市、農地、工業地、、etcetcは自ずと最も理想的な価格や場所に決まるというのです。
この数学的な証明はそれほど難しくありません。
つまりはこの自然収束点に対して外からの特別な力を加えないこと、最大限の尊重、それだけで
『公共の福祉』たる精神が完全となるのです。
これこそ個人の尊重に他ならないと思いませんか?
ここからが本論なのですが、例えば投票のように一票の重みは等しい(実際は違う)のでしょうか。
これは違うと思います。
人それぞれによってその公共の福祉への影響度は異なるのではないでしょうか。
日本は国民皆中産階級と言われますが、もし一人一人の重みが同じであるなら
この庶民たちの不満はなぜいつまでも減らないのでしょうか。
ここらへんは日本は明確に資本主義です。
経済への影響、社会への影響が最も大きなパラメータなのだと思います。
だからこそ経済への影響が大きなムーブメントが重要視され、
ニュース、これも一種のエンターテイメント、ですら流行が過ぎれば放送しなくなります。
この点については個人的には反対意見です。
人間とはそもそも情動的な生き物ですから、周りの意見とか流行で簡単に意見を変えてしまいます。
ときには本来自分の意図しなかった行動に出てしまうこともあります。
個性を尊重するというのは何でも好き勝手やっていいということではないと思うのです。
だからこそ普遍的人間性に深く踏み込んだより人間的な政策が必要なのではないでしょうか。
国民に付かず離れず、道を踏み外したときには正しい道に誘導し、足が竦んだときには肩を押してやる。
政治はシステムですが、忘れていけないことはそれを操作する人・される人は人間自身だということです。