モンテスキュー『法の精神』より
法は一般的に事物の本性から生ずる必然的な諸関係であり、
人間の法は理性の適用の結果としての経験的知識であるが、
理性を適用すべき事物の本性が社会によって異なる
とても簡明誠な定義ですね。
彼は世界中の法を調べた上でその本質をこのようにまとめたようです。
物事の理性的視点においての本性は社会、それを見る人、によって違うと言っています。
ある人々によっては神が定めたもの、神が与えた言葉、それらが物事の本質かもしれません。
#ユダヤ教的事物観念
ある人々によっては認識しうるものだけが全てであるかもしれません。
#西洋哲学における認識存在論
#存在する⇒認識可能 ⇔ 認識不可能⇒存在しない
どんな手順にしても、それらの自己規定により見えてくる事象は
事物の「理性の目」通して見える映像に過ぎません。
だから見る人、見る方法(規定)によって全てのものは見え方は変わってきます。
そしてその事象と自分の間に存在するあらゆる関係それ自体が法なのです。
簡単に言えば分からない物、知らない物、理解できない物は法ではないし
法として規定してはいけないもので
知っている物、見える物、理解できるものは全て法なのだよという話です。
見えるもの=法 見るための方法=自己規定
こんなふうにまとめられるようです。
しかし方法=自己規定なんて如何にもチュウショウテキでもってまわってますね。
認識-存在に基づいて少しつっこんだ解説をします。
かなり前のエントリーで
法律=ある集団における最大公約数の法 と定義しました。
例えばその場に居る全員が目の前においてあるリンゴを見えていれば
その認識はその集団における絶対的な法なのです。
ある人が「このリンゴは赤い」と言ったとします。
赤いと言われてあなたが想像した"赤"。
それと黄色と言われてあなたが想像した"黄色"。
実はそれを言った人は黄色を赤だと言ったのかもしれません。
しかしあなたはその人の目を持っていませんからその赤がどんなものかは分かりません。
つまり認識の外の存在なのです。
だからそれを問題視して議論を始めるのはナンセンスであって
そこは黙ってあなたが想像した"赤"をこの場合の赤とします。
そしてあなたもそのリンゴを見て「このリンゴは赤い」と言えば
このリンゴに対して赤いという法があなたがた二人の間に存在するのです。
自己規定の意味がなんとなく浮き上がってきました。
少し乱暴な言い方をすれば「目というフィルター」=自己規定とも言えるかもしれませんね。
これ以上うまい表現が思い付きません。