September 25, 2004

日本語の曖昧さ - 次章

先のエントリーは今日電車の中で思いついたしょうもないネタを説明するための序章です。
そしてこれが第二章で三章構成です(笑い
#一日経って若干手を入れました

新聞やインターネットなんかでも耳が腐るくらいにこのフレーズを聞きますよね。
やれ日本語は曖昧だ、いいかげんだ・・・。
英語は簡明だ、論理的だ・・・。

前にも書いたように言語はそのネイティブたちの精神性を強く表します。
だから言語と性格は切っても切れない関係だと言えるんじゃないでしょうか。

日本語は便利なもんで「どうも」と言えば
「こんにちは」になったり「ありがとう」になったり「ごめんなさい」になったりします。
というよりも「どうも」に何の定義もないんじゃないでしょうか。
『言葉と感情』で説明したようにある概念と言葉がリンクされます。
この場合の「どうも」は恐らく相手に対して一歩引くというような概念なのではないでしょうか。
だからその時々によってその"へりくだり"が挨拶になったり感謝や謝罪になるのです。

ここからが主題です。
この"へりくだり"は色々な感情の源泉だと言えるんじゃないでしょうか。
ここから発展的な諸々の感情へと成長・変化していくわけです。
しかし日本語は何故かこの源泉の感情をそのままに発するのです。
聞き手はそれをアンパッキングした上で、そこからより上位の感情を読み取るのだと思います。
言いたい事はこの源泉というものは感情としては一番濃いスープだということです。
人間関係において謙虚さというのは最も、どんなものよりも大切な感情だと思います。
それを日本人は生で伝達しているのです。
謙虚さだけではないと思います。色々な感情の濃い部分を吐露してるんじゃないかと思うのです。
色々な国の人は渋々、料理して食べやすくした言葉で会話するんです。
こんなことが可能になるのはひとえに日本人のコミュニケーション能力の高さにあるんだと思います。
特に聞き手ですね。
それが日本語を察しの言語だと言わしめているんじゃないでしょうか。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)