September 13, 2004

生きているって?

よく、人は誰か身近な人が死ぬと「あの人は私の心の中で今でも生きています」とかそんなことを言ったりする。
俺は身近な死という経験がないからいまいちピンと来ないまま、白い目線をよこしていた。
少なくともごく最近までは。

うちの犬が死んでからおおよそ半年が経って、あの犬の匂いは早、この家から消えてしまったようにも見える。
何も知らない人がこの家に来ても犬が居たということを知ることはできないだろうと思う。
多くはないあの犬を知っている人でも何の違和感なしに居られるんじゃないかとも思う。
しかし、家族、少なくとも俺には、あの犬が生きていたときを寸分違わずに思い出すことができる。と認識している。
ここでいつも寝てた、とか、この机の下からよく皆を覗いていた、とか、
歩くときにはこんな音がする、とか、そういう諸々のあの犬を。
最近になってそういうのが「心の中で生きている」ということなのかなとか思うようになった。
なんだ、ありふれたことじゃないか、と。
俺にとってあの犬が居たことはありふれたことで、
そういう光景が残像として今でも居ることに何の違和感も感じられない。
こういう表現は如何にも取って付けたような、自己愛の言葉のように長く感じていたが
そうでもないんだなと今更だった。

俺が最初にあの犬の死を認識したのはずいぶん前だった。
そのときに何とも言えない恐怖に駆られて、矢鱈と撮った写真が残っているからなのだが。
それまではあの犬がごく当たり前な「家族」であり、
「家族」とは40年、いや50年くらいは死の猶予があるものだと何とは無しに思っていた。
ところがどっこい、考えてみれば当然だが犬の寿命なんてたかが10年やそこら。
15年生きた犬に「長生きしましたね」なんて言うのはすごく寒々しくて
たかが15年だろ!なんて心の中では思うのだ。
もっと生きろよ!まだまだ生きてろよ!
何なら俺が死ぬまで生きてたっていいんだぞ、と。

それから、あの犬の死を認識してからは「家族」以上のものになった。
家族への愛以上に、死に逝く者への愛しさというものが湧いてきたからだ。
まだ生きる者ともう死ぬ者の間には不平衡な感情が少なからずあるものだと思う。
あの犬は死ぬ間際に俺のことを思い出したかな?
そんな意味のない妄想もきっと供養の線香一本にはなってくれるさ。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)