May 28, 2004

リアリズムのなんたるか

ユリウス・カエサルの言によると「人は自分の見たいと欲する現実しか見ようとしない」のだそうだ。

圧倒的大多数の「見たいと欲する現実しか見ようとしない」人間と、僅かな「見たくない現実も見る」人間たち。
カエサルは果たして後者だったのだろうか。
いくつかの点でそのようにも「思える」が、この点において俺が前者であればそれはまったく何も意味しないように「思う」。

見たいと欲する現実+見たくない現実 = 真実
まず、こう定義するとしよう。
いや、人間性を主体とすればむしろ
真実=見たい現実+見たくない現実 と言えよう。
真実とは普遍である。しかしまた、普遍とは真実である。
真実であるから普遍なのか、普遍であるから真実なのか。
真実⇔普遍なのか否か。
分からないこと尽くしだ。

少なくとも真実も普遍も人間の外に在るものである。
客体である、とも言える。
しかし同時に客体として人間は真実をそのままに認識することができない。
人間が認識するものは常に客体の目を通した像に過ぎないのだ。
ではカエサルに戻って「見たくない現実」も見るとはどういうことだろうか。
認識可能空間内にある真実が存在し、それが目を通して認識されたときに
真実と認識が同値であるなら「現実を見る」であり、
その現実が見たくない種のものであるなら「見たくない現実」を見るということになる。
つまりそれは認識がバイアスという束縛から解放されているということなのか?
と言えば違うように思う。
自我を持たない人間は居ないということは自我から逃れられる人間が居ないということでもある。
如何なカエサルと言えどもやはり人間であっただろう。
とすれば考えられることは可逆的考察という作用が働いているのでないだろうか。
真実であるところの要素xをバイアスしてx -> f(x)として
ある種のフィルタが現実を認識した要素yに対してy - > p(y)であったときに
p( f(x) ) = x であれば、それは可逆的フィルターである。
"自分は真実をバイアスして見ている"という認識と、
それがどんなバイアスなのかという洞察を共に持ったときに初めて可能になるいわば神業なのだ。

孫子の言葉に「彼を知り、己を知らば百戦危うからず」という諺があるが本質的には同じことを言っているのではないだろうか?
ほとんどの人間は敵を認識することはできるが、
果たして「彼が何であるか」という本質的な部分にまで立ち入る人間は少ない。
なぜなら「彼」とはまた、真実の主観的表象に過ぎないからである。
その認識を下した自己そのものを理解し(己を知らば)初めて「彼が何であるか」を認識することができる。
「彼」も「己」も一つの論理の帰結という点で共通項なのである。
そして「彼が何であるか」さえ分かれば対処法というものもあるのであろう。
カエサルは一流の政治の人であったが、また一流の戦術の人でもあった。
それは兵法家であった孫子と繋がるところが何かしらあったのかもしれない。

流行のリアリズムをして、大多数の人間が「見たいと欲する現実」のみの現実主義者であったとしたら
これほど滑稽なこともない。
残念だがやはりほとんどの人間は前者であるのだ。
果たして俺自身はどうだろう。

Posted by Samourai | Comments(0) | TrackBack (0)